『エンド・ゲーム』

まったく持って本を読むという行為は恐ろしいものだと思う。本が人間を作る。私は本によって作られている。最近家の本棚をひっくり返してみて驚いた。まさかコレほどまでに私が本を所有しているとは思ってもいなかったからだ。これまでに読んだ本を数えればそれ以上。私は収拾癖があるために、読んだ本は大抵持っているが、記憶にもない本たちが私の歴史の中に埋もれているのだろう。

そうだ、『エンド・ゲーム』の話だった。これは恩田陸さんが長年書き続けている、『常野物語』というシリーズの第3作目にあたる。1作目は『光の帝国』で、2作目は『蒲公英草紙』だ。両方とも所有しているが、2作目は途中まで読んで放棄してしまっている。まぁ、あれを朗読しようとしたのが間違いだったのかもしれないが。この『エンド・ゲーム』はかつて『光の帝国』の中で登場した拝島という一家が主軸となって描かれている。“常野”の一族には特殊な能力がそなわっているが、彼らは彼らが「あれ」と呼ぶ異質なもの(それは大抵人間であるのだが)を“裏返す”力を持っている。また、彼らは日々「あれ」に“裏返される”ことにおびえそして「あれ」と戦って生きている。私の残念な頭では、この物語を適当に説明することができない。これは人間の主観に挑戦する小説なのかとも思えるが、“洗濯屋”の火浦は彼らとまったく違う能力を有しているのであり、やはり“常野”という普通の人間とは違った人々の話であり、一種のファンタジーであると捉えるべきだろうか。“常野”の人々が出てきているのだから、これは『常野物語』というシリーズなのだろうと思うが、私の中では『常野物語』は1作目の『光の帝国』で完結している。2作、3作目はそれらを別の誰かがスピンオフしたような、そんな感覚に近い。それはあまりにも他の作品が単体として立ちえるためか、『光の帝国』とは演出技法が異なっているためかは定かではない。しかしまぁ、やはりこんな世界を想像しえる人間の脳みそというのは計り知れない。この本を読んだせいで、また一つ、私は私の中にあらたな何か種を植え付けたのだ。それが芽を出すのか、それともそのまま腐り果てて失われてしまうのかはわからない。しかし、その発芽のきっかけ源泉たる書物はこうして私の手の中にある。その種はいつでも植えられることが可能なのだ。そして植えられた時期、場所、私の精神状態如何によってどんな花が咲き実がなるのかは異なってくるのだ。

読後感だけでつらつらと書いていたら、中身の話からそれた。物語の主軸は拝島暎子と時子という二人の母子が軸となって展開される。暎子の夫は十数年前に“裏返され”て彼女達の前から疾走してる。その虚無感を抱えつつも、彼女達は「あれ」の影におびえ、自身のその感覚にさえも疑念を抱き、疑心暗鬼の塊のようになって生きている。そんな時、暎子が会社の出先で倒れ、延々と眠り続けるという事態に陥る。時子はそれを見て“裏返された”のだと思い、父が残して行った電話番号に電話をかける…。という流れだ。この物語は先ほども述べたとおり、疑心暗鬼に彩られている。火浦は味方なのか、敵なのか。電話先にでた女の人は?世の中に対して疑いの眼差しを常に投げてきた母子の目を通して、すべてが語られる。誰が敵で誰が味方なのかもわからない。「あれ」が何かもわからずに、ただ“裏返される”恐怖から“裏返して”いる。これは是非ともアニメーション化したら面白いのではないだろうか。恩田陸さんの作品は、鮮明なイメージを伴って再生されることが多いが、この“常野”は現代を舞台としたファンタジーである。どこまで続くのかわからない真っ暗な、柱の乱立する空間。とても長い長いちゃぶ台の先にいる、巨大な父親。人間の頭の位置に乗る大きな苺。どれもこれも、実写で描くには生々しすぎるが、イメージ力を掻き立てられるものだ。最後でしっかりと読者を裏切ってくれるところは、ああ恩田陸さんだなぁと思わされた。

まぁ、こうしてね、私のしゃべりのテンションがいつもと違うのもその一端だとは思うんだよね。むしろこうして冷静に文章をつむいでいるときの方が脳がぐるぐると回っていろいろなことを整理整頓しているんだと思う。テンションが高いのはおそらく何も考えていない、考えることを放棄しているということに他ならないんだと思う。てか、一人で道を歩いているときは大体こんなテンションで何かしら考えていたような気がする。道をあるくと言うことは、私にとって考えることと同義だった。だからこぉんな頭ばかり大きな、それでいて精神状態も不安定な人間ができあがってしまったんだろうなぁと思うんだけど。

エンド・ゲーム 常野物語 (集英社文庫)

エンド・ゲーム 常野物語 (集英社文庫)