『博士の愛した数式』

根っからの文系頭ですが、数学は嫌いではありません。わかる・わからないはありますが、どちらかと言えば好きな部類に入ります。夏頃だったでしょうか、学校の先生がこの本を勧めているのを聞きました。本屋で見かけたときにほしいと思ったのですが、その時はハードカバーしか刊行されておらず、一緒にいた友人と「文庫になったら買おう」と意気込んで帰ったのを覚えています。それがとうとう文庫になったと聞いたので、買ったのはいいのですが、先に母に読まれました(泣)まあいいんですけどね、どうせその時はまだ受験中だったし。そして母が読破し、私が受験を終えたので、ゆっくり読み始めたわけです。

元々静かな文体は好きな方で、しかもその方が速く読めるので、この本は読みやすかったです。『ナントカの定理』とかは、難しかったですけど。最近涙腺が弱っているのか、電車の中で読んでいて、泣きそうになってしまいました。お節介焼きなほうなので、博士のような性格の人が気になってしまうせいもあるでしょう。話は静かに静かに、主人公の「私」が博士との思い出を思い出して、その時間に浸っているような雰囲気で進みます。お互いが肉親でも昔からの友人でもないのに、彼らの間には確かに愛と思いやりと理解が溢れていました。博士の記憶は80分しかもたない。昨日会った人を、約束を、出来事を、博士は覚えていられない。昔、同じような病気かなにかの人をテレビで見たことがあります。記憶が永続して保たれないにも関わらず、その人は「オーロラを見たい」と言いました。そして「綺麗だね」と言って、感嘆の息をもらしていました。目が見えることや耳が聞こえること、まして記憶することは私たちにとって当たり前で、それは暗黙の了解として社会に浸透している。それなしには、他の人間と同じように生きていくのは難しい。だから博士は記憶を補うために、体中にクリップでメモを留めてある。それはハタから見れば滑稽で奇妙な格好だけれど、博士にとっては大事な大事なものなのです。

作中に、登場人物の名前は一切出てきません。「博士」は「博士」であり、「私」は「私」。「私」の息子には、本来名前があるはずなのに、作中で使われるのは、博士が付けてくれたあだ名である「ルート」。唯一出てくるのが、江夏豊さん。彼が、博士とルートと私を繋ぐ大事な接点となっているのです。彼は話したり、動いたり、影響したりせず、作中不動の存在として登場し、静かに物語のキーポイントとなってくれています。

台詞の一つ一つにも、どこかかわいらしさがあって、愛嬌に溢れています。博士が「私」に向かって言った「君が料理を作っている姿が好きなんだ」という台詞なんか、聞いただけで泣きそうです。80分しか記憶を保てない博士と家政婦の話なんて、いかにも“お涙ちょうだい”系のようですが、私の場合は博士の記憶が 80分しかもたないことよりも、こうした台詞や彼の仕草の一つ一つに涙がでそうでした。もしかしたら私は、彼の中に私の抱く“幻想の夏目漱石”を見たのかもしれません。

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)