『死神の精度』

ちょっと前に映画が話題になった、伊坂幸太郎の本。淡々とした一人称と、薄暗い雰囲気、じめじめしているけれど、どこかひんやりと透き通っているイメージ。確かに、彼には雨と犬が良く似合う。真っ黒いスーツで、彼が傘を差しながらしゃがんでいて、目の前には犬。そんなイメージが浮かんでくる。もちろん帽子もはずせない。たしかに、これは映像にしてみたくなる。

1話ずつがしっかりと完結して、短編集としてもとても楽しめるが、やはりそこは一冊の本になっているだけあって、最後まで読めば、ただの短編の寄せ集めではなくて、それが「死神の精度」という本なのだな、と認識させられる。最初と最後の話が、床屋に関係しているのは偶然なのだろうか。作者はそれほどに、髪を切るということにこだわりがあるのか。無表情な死神はやっぱり人間離れしていて、そこが逆に面白い。いつも人間のことについて文句や不思議なことを考えているし、喋り方も独特だ。

本の装丁は、さほどにこだわりを感じない。「映画に乗っかっている」と言う感じ。こんな映画やりました。これ、実はこの本が原作なんですよ。ただ、それだけ。ああ、ちょっとは紹介されてたかな。でも、映画の内容も同じわけだから、純粋に本だけの宣伝じゃないよね。表紙も人間の写真を使っているし。まあ、もう映像化されてしまったのだから、この世に「死神」を具現化する俳優がいるわけで、想像のいっぺんとして抽象的な絵柄にする必要性は全くないのだが、私はちょっとざんねんに思う。例えば、雨と傘とたくさんの人間…。そう、交差点とかの写真もいいかもしれない。その真ん中に、浮き出るように加工された「死神」。もちろんこちらは向いていない。彼の顔は仕事によって変わるのだから。顔があってはいけない。

そういえば、伊坂幸太郎って千葉の出身なんだね。私も千葉なので、ちょっと嬉しくなってみたり。「オーデュボンの祈り」って有名だけど、私はずっと外国人作家の本だと思ってた。「老人と海」みたいな。最近本屋に行って改めてみて、伊坂幸太郎の作だって知った。今度読んでみようかな。

日本の文学や映画も得てして、アンニュイなじめじめとした、アンダーグラウンド的なものだ。ラテンアメリカ文学と酷似している。文学はいい。でも、日本のそんな映画は、私は嫌いだ。たぶん、生々しいから。恥ずかしくて、見ていられない。海外のものだと、また、自分達とは一線を画しているものだから大丈夫。

そうそう。後期から、ガルシア・マルケスの「ある予告された殺人の記録」をやるらしい。授業で。後期ずっとそれか、と考えると、面白いようでもあり、憂鬱なようでもある。

死神の精度

死神の精度